christinaの備忘録

てきとーに。

なぜ合理的な思考で宝くじを買えるのか

合理的に宝くじを買う
 
身近なギャンブルである宝くじを買う事の是非の議論は誰でも一度は経験していると思う。
最も素朴な批判は期待値によるもので、普通宝くじは売上の5割から7割くらいしか配分されず残りは寄付や収益に当てられる。平均すれば、宝くじを買うのは赤か黒に賭けているのに払い戻しは2倍ではなく1.5倍しかないルーレットをしているようなものだ。そんなギャンブルをする意味がどこにあるのか?
これに対する典型的な反論は夢を買っているという論で、それによれば普通ならまとまって手に入ることはない金額を掴める可能性があって賭け金も低いのだから宝くじを買う意味はある。
これらの主張について簡単にまとめておく。
 

 

効用

 
この議論で重要な概念は効用で、ある人が金銭や物から得られる満足の度合いである。10万円の臨時収入を得ることも、おいしい料理を食べることも、結婚をすることも、どれも効用関数によって数値で計ることができる。*1
金銭に関しては、金額と満足の度合いは明らかに比例していない。貯金がない状態で10万円もらうのと、宝くじで1億円当たった直後に10万円もらう状況を比較しよう。どちらも資産が10万円増えたのだから同じだけ嬉しいはずだと言う人はどこにもいないだろう。このような違いを表すのに効用関数としてよく使われるのが対数関数で、それによれば資産100万円が200万円になった時も資産1000万円が2000万円になった時も同じだけの効用を得ることになる。お金持ちになるほど、1単位分の満足を得るのに必要な金額が大きくなる。
 

期待効用

 

こうした効用関数を使うと、ある人が宝くじから得られる平均的な効用(期待効用)を計算することができる。期待値が客観的事実であり誰の目にも同じであるのに対し、期待効用は主観的で人により異なる。この期待効用を用いて宝くじを買う事の正当化ができる。例えば宝くじで3億円が当たれば、質素に暮らしている限り働く必要なくなるだろう。そんな生活を夢見る人にとっては、3億円から得られる効用は当選確率があまりに低いという事を考えても宝くじの価格より大きくなりうる。あるいはもっと極端な例として、あなたが難病に侵され数億円の高額な医療費が必要な治療でなければ助からないとしよう。もしその病気をカバーする保険に入っていなければ、宝くじはおそらく唯一の解決策になるだろう。それに全財産をつぎ込んだとして、何の不思議があるだろうか(諦めて残りの人生を楽しむというのはまた別な選択肢だ)。一方で既に十分な財産を有している人なら、1等が当たったとしても同じくらい大きな効用を得ることはないだろう。このような違いは期待値では説明できないが、期待効用によってなら合理的に説明できる。同じような例は身近にいくらでもある。いくら働いてもほとんど貯金ができない生活しかできない時に、家を買ったり子供を大学に行かせたりするだけのお金を手に入れたいと思ったら他にあまり選択肢は無いからだ。彼らは実際に当選した時の効用をおかしなくらい高く評価しているかもしれない。現実を見ておらず自分に都合の良い解釈ばかりしてるかもしれない。たとえそうだとしても、彼らは(彼らの)効用関数の基で合理的である。彼らの価値観はおかしいと言うことはできても、合理的ではないとは言えない。効用関数は主観的な存在だからだ。
 
 
この説明の大きな問題点は、効用関数をある程度正確に計算しなければならない事だ。ロト6を例にすれば、600万分の1の確率で1億円が当たる事の効用はどのくらい大きいのだろう?数字で表すのが難しいのはもちろんとして、何か他の事象の効用と比較するのも難しい(少なくとも私は当選確率も当たった時の効用も直感的には分からない)。経済学で定義される「経済人」ならばこうした効用を計算できて、それを最大化するように行動できる。一方で実際の人間はそのように行動することはできず、様々なバイアスに影響される事が分かっている。その領域については山ほど出ている行動経済学の本が詳しい。
 

結論

 
結論として、宝くじから何を得られるかが正しく理解できているなら宝くじを買うことは合理的でありうる。もしある人が計算した効用が、確率に関する幻想に基づいていたために実際には合理的でなかったとしよう。その場合でも、余裕がある時に月に3000円程度の宝くじを買う事が人生を負の方向へ動かしたりしないであろう事は自信を持って言える。
 
 
 
 

*1:数値に変換できない場合として、ある出来事は別の何かよりも望ましいといったように、順序しか規定しない効用関数もある